五島列島の旅 番外編「五島列島と壱岐・対馬」

 

五島列島を旅してふと壱岐対馬と比べていました。

2021年秋、壱岐と対馬を旅しました。
壱岐と対馬は同じような島だと思って出かけましたが、壱岐は平地が多く、対馬は山が多いなど全く違った島でした。
その壱岐対馬をひとくくりにして五島列島と並べるのは無理があることは十分理解していますが、一度、頭に浮かんだものはなかなか消すことができません。
そんな無理な話だと理解して、お読みください。





元寇と遣唐使

文永11年(1274年)、弘安年(1281年)と2度にわたる蒙古襲来(元寇)で壱岐・対馬は酸鼻を極める惨状を呈したと言われます。

壱岐にある少弐資時像です。
壱岐守護代、弱冠19歳の少弐資時は元寇・弘安の役で雲霞のごとき元軍の重囲の中、力戦奮闘しましたが遂に矢尽き、刀折れ郎党100余騎と共に壮絶な最期を遂げました。
少弐資時像 | スポット・体験 | 【公式】壱岐観光ナビ (ikikankou.com)



対馬の元寇の古戦場(佐須浦)にある守護代宗助国の像です。

文永の役で守護代宗助国は自ら親兵80余騎を従て討って出て、壮絶な最期を迎えています。

元寇で戦った対馬の守護代 宗助国の騎馬像除幕 - 長崎新聞 2020/08/11 [00:00] 公開 (nagasaki-np.co.jp)

壱岐対馬はいたるところに元寇による悲惨な歴史を伝えるものがありました
一方、五島列島では元寇のような異国から襲来された悲惨な話は聞きませんでした。

五島列島三井楽(みいらく)にある遣唐使ふるさと館にある屏風絵です。
五島列島は遣唐使の日本最後の寄港地でした。






屏風絵の横に作者の文章がありました。
屏風絵「三井楽・船出の朝」
「日本の黎明期に遣唐使船が最終の寄港地として、ここ三井楽から島に向かって船出をしました。先進国、唐の文化を学ぶために多くの勇気ある若者たちの壮大な夢と希望を乗せて。それは生きて帰れるという約束のない船旅でありました。そんな船出の朝の情景です。激励する村の長老と正、副̪使たち。恋人たちの別れ、水夫と家族の別れ。激励に駆けつけた海賊たち。見送る村の童たちと、それぞれのドラマを描きました。
(中略)
先人の偉業を偲びつつ祈りと感謝の思いで書き上げました。」
2001年夏 日本画家 鈴木靖將


同じ長崎県の離島ですが、ちょっと位置が違うだけでこのような違いになるんですね。
地政学的リスクとはこのことだと思います。

バラモン凧

五島列島では至る所に「バラモン凧」を見ることができました。
私は見ていませんがNHKの朝ドラ「舞い上がれ!」でも重要なアイテムだったようです。
「バラモン」は「元気な、勇敢な」の「バカラ」と「者」が合わさって「バカラモン→バラモン」なのだそうです。

凧の上の赤い顔は鬼です。その鬼に向かって鎧兜の武士が向かっていき、兜を鬼に嚙まれている武士の姿が描かれています。
「鬼に対しても背中を見せないバカラ者」だからバラモン凧なんです。

五島でバラモン凧を見て、「壱岐でも同じような絵柄を見たぞ」と思って画像を探してみるとありました。
壱岐の橋に描かれていました。
壱岐の民芸品鬼凧(おんだこ)だそうです。

鬼退治の武将をモチーフにしているところは五島のバラモン凧と同じですが、こちらは鬼と一緒に武将がこちらを見ています。
五島の人に言わせると「鬼に背を向けている」となりそうです。
壱岐の人には壱岐の人の意味があるんでしょうね。




バルチック艦隊と海援隊

日露大戦における日本海海戦でバルチック艦隊は壊滅し、ロシア艦隊の兵隊はボートに分乗し対馬に上陸しました。








ロシア兵が上陸した海岸のすぐそばに日本海海戦記念碑(殿崎公園)があります。

日本海海戦記念碑(殿崎公園) | スポット | 【公式】長崎しま旅行こう-長崎の島々の観光・旅行情報ならココ! (nagasaki-tabinet.com)
日本海海戦記念碑
1905年(明治38年)5月27~28日。日露戦争末期の日本海海戦にて、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を殲滅しました。
この対馬沖で繰り広げられた日本海海戦を記念して地区住人により建立された記念碑です。
この海戦の際、撃沈されたロシアバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名は、4隻のボートに分乗し、この地に上陸しました。
戦況を見守る傍ら農作業をしていた農婦は、命からがら逃げ延びてきたこの水兵達を水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど、手厚く持てなしたといいます。

五島列島の上五島(中通島)には坂本龍馬ゆかりの広場があります。

龍馬さんが海に向かって手を合わす像が立っています。


坂本龍馬が長崎のグラバーから購入した練習船ワイル・ウエフ号は、潮合崎で大暴風雨にあって遭難しました。知らせを聞いた龍馬は「寺田屋事件」で受けた傷を鹿児島にて療養中でしたが、この地に駆けつけ村役に慰霊碑建立を依頼したといわれています。


龍馬が弟のように可愛がっていた池 内蔵太をはじめ、12名の同志が若くして海へ散りました。この地に建つ龍馬は仲間への鎮魂の想いを込めて、遭難した場所を見つめながら合掌しています。











住居や食べ物に異国を感じさせないのは同じ

壱岐対馬に行く前には、「朝鮮半島に近いから建物や食べ物にきっとその影響があるだろう」と思っていました。
しかし、建物は日本建築だし、居酒屋のメニューにも朝鮮半島の料理の雰囲気のするものはありませんでした。
五島列島も同じです。
五島列島は倭寇の基地があったとかで大陸の人間も住んでいたようです。
福江島に大陸の人が住んでいた名残として六角井戸があります。
日本人が作る井戸は円いか四角ですが、六角形です。
同じく福江市内に明人堂があります。

倭寇時代の大陸の影響を残すのはこの二つくらいで、街並みはいたって普通の日本の町そのものです。






五島列島で大陸の影響を受けた食べものを強いて挙げればうどんでしょうか。

五島名物の地獄炊きです。
椿油を使っているので長時間湯がいても伸びないのだそうです。
湯がいた鍋ごと出て来て、①あご出汁②醤油・出汁・かつお節を入れた溶き卵でつけ麺としていただきます。
「五島手延べうどんの由来」
「西の果ての東シナ海に浮かぶ浮かぶ五島列島は中国大陸の最短地として知られています。その昔には倭寇の根拠地、遣唐使の寄港地でもあり、大陸の文化をいち早く取り入れた地でもあります。その文化と共に伝わったうどん作りは五島の美味しい水と季節を通して吹く自然乾燥に適した海風、島に自生する椿から取れる良質な椿油により更に美味しいうどんとなりました。
手間がかかるため製麺量に限りがあり、全国の通の麵好きの間では「幻のうどん」と呼ばれるうどんの一つに数えられています。」

テレビ取材も多く受けている「竹酔亭」。
この日も満席で、入店するために行列ができていました。

このくらいでしたら五島の食には大陸の影響が色濃い、とは言えません。





海産物のお土産

壱岐にはウニ、対馬にはイカやアナゴなど海産物のお土産があります。
五島列島にはなぜか海産物のお土産がありません。
あご出汁がありますが、海産物に括るのは気が引けます。
「あれだけの海産物があるのだから」と思うのはよそ者の考えで、土産物に加工せずそのままで食べて、楽しんでいるのかもしれません。



旅は面白いですね。
実際に行ってみると、事前に想像していたものとは違うことが多く、行ってみて分かることが多くあります。
今回のように近くにある島なのになぜこんな違いがあるんだろう、と過去の旅と絡めて考える楽しみもあります。
さて、次はどこに旅に出ましょう。






















































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