REMEMBER NAGASAKI

 

初めて長崎の平和公園に行きました。
(高校の修学旅行で行ったはずだ!と友人から指摘がありました。全く覚えていません。)
爆心地のすぐ近くにあります。
第2次世界大戦で日本がどんなだったか。
被爆地の長崎や広島がどんなだったか。
REMEMBER NAGASAKI の思いを強く持ちました。






長崎市の平和公園

少し肌寒い秋晴れの青空のもと、平和祈念像の凛とした姿がありました。
制作者の北村西望さんは長崎出身の彫刻家で、天を指した右手は“原爆の脅威”を、水平に伸ばした左手は“平和”を、軽く閉じた瞼は“原爆犠牲者の冥福を祈る”という想いを込めたそうです。





原爆の被害、第2次世界大戦の悲劇、平和の尊さを教え、伝える象徴的な場所です。

この日も多くの修学旅行生が訪れていました。





平和祈念像の両脇に折り鶴の塔があります。
沢山の折り鶴が吊るされています。
修学旅行生だけでなくわざわざ折り鶴を持ってきてくれる人もいて、今でもたくさんの折り鶴が集まるそうです。
ですからいつでも折り目の新しい折り鶴でいっぱいだそうです。










左手はアメリカの方を指している!?


平和祈念像の前で「上の伸ばした右手はこの上で閃光を発した原爆を、横に伸ばした左手は平和を示している」と話をしていると通りすがりの地元の年配の方が「左手はアメリカの方角を指している」と声をかけてきました。「え!平和を意味するのではないですか?」と聞くと再度「アメリカの方を指している」と言って去っていきました。
決して「アメリカがこの上に原爆を落とした」とは言いませんでした。しかし、「アメリカの方角を指す」と口に出す気持ちの奥にはその思いがあるに違いありません。

先の大戦から70年以上が経ち、この間、日本は戦争をせず、平和な時代を過ごしてきました。
平和ボケした自分などは長崎の原爆は歴史上の出来事としてとらえていました。
しかし、長崎の人たちにとって一瞬にして町を破壊され、非戦闘員を含む7万人を超す人が殺され、その後の健康被害、復興の困難さは未だに歴史上のことではなく今も続く痛み、苦しみなのだと青ざめる気持ちがしました。
悲惨な原爆を忘れないための「平和公園」。

平和公園の近くの爆心地モニュメントの前で東アジアらかの観光客が3脚を立てグループでポーズをとりでピースサインで写真を撮っていました。
他国の悲劇的なモニュメントの前で平気で笑いながら写真を撮ることができるのも平和だからでしょうか。
「シャッターを押してくれ」と頼まれたらきっとブチ切れていたことでしょう。

短い滞在を終え、長崎を後にするとき、次の言葉が口をついて出てきました
REMEMBER NAGASAKI
I SHALL RETURN









コメント

このブログの人気の投稿

野市に”とばし”が戻ってきました

谷中から不忍の池までぶらり散歩

トラとハナ(5) 秋風と共に寂しくなってしまいました