戦後80年にあたる2025年 ねばねばの旅
今年は戦後80年の年でした。
「いつかは行かねば」「一度は行かねば」と思いながらついつい先延ばしになっていたところがあります。
戦後80年の節目にそうしたところに足を延ばしました。
「ねばねばの旅」の一年でした。
終戦直後の沖縄を舞台にした小説でウチナンチュウの若者が夜な夜な基地に忍び込み”戦果品”を運び出すコザ。
基地の前の通りは今でもゲート通りと呼ばれています。
嘉手納基地の近くまでは行ったことがありますが、コザの町に行ったことがありませんでした。
あのタバコと油とホコリの臭いのコザの町は今、どうなっているんだろうと訪問しました。
コザの小さな家族経営のホテルで3泊し、コザの町を歩きました。
でも米兵を見ることはありませんでした。
米兵が町に飲みに来るのは土曜日の深夜だそうです。
ホテルのフロントの女性が「基地をなくせというのは簡単だが、基地をなくした後の平和をどうして実現するのか誰もわからない」というのを聞きハッとしました。
現地は一体どうなっているんだろうと訪問しました。
埋め立て反対を訴えているも沖縄の人たち。
ゲート周辺の沢山の警備員も沖縄の人たち。
ここにも分断を感じました。
長男が小学生だった頃、「教科書にある広島2中の碑を見たい」というので夏の家族旅行で訪れて以来です。
原爆ドームや広島平和記念記念館、原爆死没者慰霊碑にたくさんの人が頭を垂れています。
広島2中の碑はそのすぐそばにありますが、訪れる人はほとんどいません。
それでもチリ一つなく清掃され、折り目の新しい折鶴が架かっていました。
人知れず管理している人々の姿が見えるようでした。
知覧特攻平和会館には特攻に行く前の若者たちの時世の句や両親にあてた手紙が残されています。
誰恨むわけではなく気丈にふるまって死んでいきました。
その強さ、純粋さに涙流れます。
若者に爆弾を抱えて敵艦に突っ込ませました。
作戦とも戦術とも言えません。
言葉は悪いですが「きちがい沙汰」です。
また国民も「軍神」としてもてはやしました。
私たちは死んでいったものを悼むと同時にあの当時の日本の風潮を思い出し、忘れてはならないと思います。
やっと行くことができました。
20才前後に描かれた作品が沢山掛っています。
この才能あふれる若者たちが国家の意思で線上に引き出され、死んでいきました。
この俊才たちがそのまま才能を伸ばしていたら画壇も今とは違っていたでしょう。
画学生だけでなく戦争で多くの才能ある若者が死んでいきました。





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