知覧特攻平和会館に行ってきました

随分前に百田尚樹さんの「永遠の0」を読んで涙しました。
その頃、知覧特攻平和会館を知りました。
「いつか行かねば」と思いながら、今月末で68才になります。
父が満てた(亡くなった)齢まで10年。
78才で満てる気はありませんが、時間が永遠でないことも確かです。
「ねば」、「ねば」言う間があったらさっさと行け、と自分で自分のケツを蹴りあげて出かけました。




娘に会うまでは死ねない、妻との約束を守るために」。
そう言い続けた男は、なぜ自ら零戦に乗り命を落としたのか。
終戦から60年目の夏、健太郎は死んだ祖父の生涯を調べていた。
天才だが臆病者。想像と違う人物像に戸惑いつつも、1つの謎が浮かんでくるーー。
記憶の断片が揃う時、明らかになる真実とは。

以上、講談社のHPから。

「永遠の0」は2006年に太田出版から出ています。
百田尚樹さんは様々な出版社に持ち込んでも断られ、やっと太田出版が本にしてくれました。
その後、講談社から文庫本も出て累計546万部のベストセラーになりました。
この本が百田さんのデビュー作とは驚きです。

こちらが講談社の文庫本です。
2009年に発行されています。

文庫本の表紙の方が馴染みがあります。








2013年には岡田准一主演で映画化もされています。


百田さんは天才的な飛行士宮部久蔵を通して命の大切さ、戦争のむなしさを描いています。
今回、知覧特攻平和会館を訪れるに際し、「永遠のゼロ」を再読し、また涙しました。
以下は「永遠のゼロ」を読んで私が感じたことです。

命の大切さ 戦場では臆病なくらい気をつかう

搭乗する飛行機のエンジン調整に神経質なくらい整備兵に確認する
飛行中は偏執的に周囲をきょろきょろ見張ってばかりいる
万が一に備えての落下傘を定期的に広げて点検する
筋トレや耐Gのトレーニングを欠かさない

「なぜ死にたくないのだ」
私の質問に宮部は静かに答えました。
「私には妻がいます。
妻のためにも死にたくないのです。
自分にとって命は何よりも大事です。」
「私は帝国海軍の恥さらしですね。」

自分の命だけではありません。
部下にも無駄に命を落とすことを戒めます。
終戦間際、教官となっても学徒出陣の若い訓練生に「上手くなった者から戦地へやられます」と甘い評点で合格を出すことをしませんでした。
戦争末期、特攻攻撃が日常になりました。
飛行兵が足りません。
そのため、少年飛行兵や学徒出陣の飛行兵を養成しました。
一人前の飛行兵になるには3年、1000時間の飛行時間が必要と言われていました。
しかし、特攻要員は1年、100時間で作戦命令が出されました。
「私(宮部)にとって操縦訓練は、生き残るための訓練でした。
いかに敵を墜とすか、いかに敵から逃げるか。
全ての戦闘機乗りの訓練はそのためにあるはずです。
しかし、皆さんは違います。
ただ死ぬためだけに訓練させられているのです。
しかも上手くなった者から順々に行かされる。
それなら、ずっと下手のままの方がいい。」

日本軍の指揮官たちの保身、出世主義

真珠湾攻撃、ミッドウェイ海戦、インパール作戦、ガダルカナル等々
自分の保身、出世のために踏み込んだ作戦を避け、
兵士の命を軽視し、兵站(ロジスティックス)無視の作戦を立てました。
そのため、多くの日本兵が命を落としました。
日本軍の作戦についてはいろいろな本が出ていますのでご覧になった方も多いと思います。
日本軍の人命軽視、兵站無視の作戦は読むたびに腹が立つやら、情けなくなります。

「永遠のゼロ」の後の話ですが、沖縄決戦。
牛島満軍司令官は自決の前の6月18日、最後の命令を出しています。
それは、「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」… つまり、その場の最高位の兵隊が指揮を執り最後の一兵まで戦うことを命じたため、終わりなき沖縄戦が生み出されたのでした。
沖縄戦が終結したのは9月7日。
終戦の日の8月15日から20日以上後のことです。
この命令のために沖縄では20万人もの死者を出すことになりました。
何故、自決の際、「降伏しろ」の命令を出さなかったのか。
いかに日本軍の司令官が人命を軽視していたかと慄然とします。

特攻作戦の不合理

生きて帰る可能性のない作戦は作戦と言えません。
また、終戦間際の頃にはほとんど戦果も上がらなくなっていました。
なぜなら、突入の前に墜とされていたからです。

飛行兵の多くは飛行技術の未熟な少年兵や学士少尉です。
熟練飛行士は本土決戦のために温存していました。
未熟な飛行士が250㎏もの爆弾を抱え、整備もままならぬ戦闘機に乗ってよろよろと飛び立っていきます。
最後には練習機さえ特攻機にしたそうです。
そのヨチヨチ歩きの特攻機をアメリカ軍の艦船のはるか手前でグラマンなどが待ち構えています。
その頃にはゼロ戦の護衛もつかなくなっていました。
「番犬のいない羊の群れ」にゼロ戦を凌駕する性能を持ったグラマンF6Fが襲い掛かります。
多くの特攻機はこの段階で墜とされてしまいました。
その敵機の攻撃を潜り抜け、敵艦船に近づいたら当たらなくても近づくだけで爆発する砲撃(近接信管)に、40ミリ機銃と20ミリ機銃のシャワーのような洗礼です。
この頃の日本軍パイロットは新人ばかりで、浅い角度でしか突っ込むことができず、米兵に「クレー射撃の標的を撃つようにカミカゼを撃ち落した」と言われてました。

威勢のいい掛け声だけで、多くの若者の命を落とすことになりました。
しかし、出撃する若者は驚くほど落ち着いていたそうです。

出撃直前に書いた遺書が残されています。
「なぜ俺が」「死にたくない」などの文言はありません。
両親への感謝、自分の一撃で敵艦に大きな打撃を加えるなどの意気込みが書かれています。
このことについて、百田尚樹さんは「永遠のゼロ」の中で「特攻兵はテロリストだ」というジャーナリストに対し特攻要員にこう言わせています。
「馬鹿者 あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか」
「当時の手紙類の多くは上官の検閲があった。時には日記や遺書さえもだ。
戦争や軍部への批判的な文章は許されなかった。
また軍人にあるまじき弱々しいことを書くことも許されなかったのだ。
特攻隊員たちはそんな厳しい制約の中で、行間に思いを込めて書いたのだ。
それは読む者が読めば読みとれるものだ。
報国だとか忠孝だとかという言葉に騙されるな。
喜んで死ぬと書いてあるからといって、本当に喜んで真だと思っているのか。」
「遺族に書く手紙に『死にたくない!辛い!悲し!』とでも書くのか。
それを読んだ両親がどのくらい悲しむか分かるか。
大事に育てた息子がそんな苦しい思いを死んでいったと知った時の悲しみはいかばかりか。死に臨んでせめて両親には澄み切った心で死んでいった息子の姿を見せたいという思いが分からんのか!」
「死にたくないという本音が書かれていなくても、愛する家族にはその気持ちはわかる。
なぜなら、多くの遺書には、愛する者に対する限りない思いが綴られているからだ。
喜んで死にいく者にあれほど愛のこもった手紙が書けるものか。」
「死にゆく者が乱れる心を押さえに押さえて、残された時間に、家族のむけて書いた文章の本当の心の内を読み取れないのか」

また、涙が出てきました。
鹿児島市内から約32㎞の所に在ります。
周りはのどかな田園風景が広がっています。
80年前にはここに日本陸軍の飛行場があったなんて思いもよりません。




 


館内にゼロ戦がありました。
「大きい」が第一印象です。








特攻作戦による戦死者は陸軍で約1000名、海軍で約3000名だそうです。
知覧は陸軍の基地でした。
出撃した飛行兵の遺書と遺影がありました。
出撃命令は死ねということです。
生きて帰る可能性は皆無です。
「明日、出撃」という命令を受け取った飛行兵。
遺書は驚くほど文字も乱れず、感謝の気持ちと戦果を挙げるという意気込みが書かれていました。
近隣の人たちとの交流の写真もありました。
「明るく、温厚な人たちだった」との証言が残っています。
17,18歳の少年飛行兵や20歳前後の学徒出陣兵。
最年長は家族もいる31才でした。
一体、どんな覚悟を持ち、気持ちを整理したのでしょう。
改めて、百田さんの怒りを思い出し、行間から溢れる思いを読み取ろうとしました。

「いつか行かねば」と思っていた知覧特攻平和会館。
やっとその思いを果たすことができました。
特攻兵の皆さんの心落ち着いた遺書には涙、涙を禁じえませんでした。

「生きたい」と言うことができなかった時代。

日本の国のために命を懸けた皆さんに尊崇の念をささげます。
しかし、特攻で死んでいった若者の純粋さ、崇高さによって特攻作戦の不条理さが薄れているように感じました。

特攻で死んだ皆さんの命を奪う作戦を立て、命令を出した司令官たちのことについては何も触れられていませんでした。

さらに一般国民には非はないのでしょうか。
なぜ、国民が「特攻」に拒否感を示さなかったのでしょうか。
必ず死ぬようなそんな作戦は大日本帝国軍人がすべきではない。
可愛い我が子にそんな作戦をさせたくない。
軍部の圧力も当然あったでしょう。
さらにマスコミが大本営発表をそのまま報じ戦意高揚を煽りました。
それにしても国民の側にも狂気があった気がします。
特攻で亡くなると「軍神」と崇め、母親も「軍神の母」と街を挙げてもてはやしました。
この国民の熱狂が軍部をがむしゃらな特攻に駆り立てたように感じます。
国民の狂気が若い兵士に「特攻に志願しなければ家族が何を言われるか分からない」「特攻を拒否する選択肢はない」という圧力になっていたのではないでしょうか。
そんな国民は戦争が終わると「特攻の母」に途端に冷たくなったと聞きます。
それまでの「鬼畜米英」から「民主主義」に変わり、特攻も「軍国主義」とされました。
マスコミはそれまでの態度を掌返しました。
アンパンの「正義は変わる」です。


平和記念館というのなら、崇高な特攻兵だけでなく、そこに追いやった側についても問題提起があって欲しかったと思いました。


第2次世界大戦。日本全国の狂気が若者に死への選択を無理強いしました。
1945年の終戦から32年後の1977年、ダッカ日航機ハイジャック事件で時の総理福田赳夫は「一人の生命は地球より重い」と超法規的処置を取りました。
たった30年でこれほど命の重さが違うのか。
なぜ、違ったのか。
戦争の罪の重さです。


帳が一つ消えました。
遠くで思っていたことと、実際に現地に行き見て、聞いたことには必ず違いがあります。
まだ帳がいくつも残っています。
体が動く間にできるだけ、帳を消していきたいと思っています。












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