広島平和記念公園でグッときました

 
息子が小学高学年の時以来ですからもう約25年ぶりに広島を訪れました。
平和記念公園で小学生の姿におもわずぐっと来てしまいました。







広島二中の碑

「夏休みにどこに行きたい?」と聞くと息子のこたえは「広島に行きたい」。
「なぜ」と続けると「教科書にある『広島二中の碑』を見たい」とのこと。
そうした経緯でその年の夏の旅行は広島に行くことになりました。


以下、上のリンク先(中国新聞 ヒロシマの記録ー広島二中)からの引用です。

  広島市中区の平和記念公園の本川左岸にある慰霊碑は、おびただしい数の死没者を刻む。高さ一・五メートル、横五メートルの石碑の裏面をたどると、生徒三百四十四人、教職員八人の名前がある。「広島県立広島第二中学校」の戦災死者遺族会が三十八年前に建立した。死没者の多くは、原爆が投下された一九四五年に入学して間もない十二、十三歳の少年たちであった。
 六学級からなる一年生は八月六日朝、碑が立て旧中島新町にいた。国家総動員法により、本川に架かる新大橋(現在の西平和大橋)東詰め、中島地区一帯の建物疎開作業に動員されていた。整列し、引率教師の訓示が終わろうとするころ、原爆投下機エノラ・ゲイの機影が頭上にあった。

 爆心地から約五百メートル。少年たちは瞬く間に吹き飛ばされ、火の渦に襲われた。ある者はその場で息絶えた。意識を取り戻した者は、目の前の本川に飛び込んだ。

 六日夕、捜しに入った母親は「水際に至る迄(まで)重なるように重傷の子供充(み)ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあり」と、光景をとどめた。七日朝に着いた父親は「屍(しかばね)は既に膨張し、どれもこれも同じ様な容貌(ぼう)」と、焼け残りの着衣やベルトで息子を確かめるしかなかった。

 全身やけどで自宅にたどり着き、また救護所に運ばれた少年たちは、ひん死の中で父や母の名を呼び、友らの身を案じた。声を振り絞って軍歌を歌い、「天皇陛下万歳」を唱えた。「国のために尽くすことが当然という時代、教育でした。それでも、あこがれの二中に入学でき、懸命に生きていました」。八十代後半になる母や、応召や動員体験を持つ兄や姉たちは感慨を込めて話した。

 今回の「遺影は語る」は、広島二中の碑に刻まれた一人ひとりの最期を追った。学制改革の翌四八年に芸陽高校、四九年に現在の県立広島観音高校となった同窓会事務局が引き継ぐ記録や、未公刊の各種資料などを手掛かりに、遺族を捜した。少年たちは、どこで、いつ、どんな思いで亡くなったのか。手紙を送り、約五百人の協力を得た。

 その結果、碑に名前がある一年生三百二十一人について、二百六十九人に加え新たに判明した二人の二百七十一人の被爆死状況と、二人の生存が分かった。二年生以上や教職員を含む計三百五十二人については、呉空襲の犠牲になっていた二人を除く、計二百九十四人の原爆死没者を確認し、二百六十人の遺影の提供を受けた。

 正式には「広島二中報国隊」。中島の動員現場にいた一年生全員は、原爆が頭上でさく裂した六日後の十二日までに亡くなっていた。

以上 引用終わり


「広島二中の慰霊碑」です。

爆心地からわずか500ⅿのところにあった広島二中の学生たちや教職員たちが被害に遭いました。
この碑の裏側には死没者として生徒三百四十四人、教職員八人の名前が刻まれています

何の罪もない子供たちの命を無残にも一瞬で奪ってしまった原爆。
この慰霊碑を訪れる人はほとんどいません。
忘れ去られたように感じましたが、ちり一つなく折り鶴がありました。
関係者の人たちが清掃やお供えを欠かさず続けているのでしょう。

息子はこの碑を見てあの時、何を思ったのでしょう。
その時の思いが今の彼にどんな影響を与えたのでしょうか。
そう言えばその後、親子でこの日のこと、この碑のことを話し合ったことがありません。
何かの機会に聞いてみようと思います。

この碑のことは今も教科書に載っているでしょうか。
教科書で学んだ子供たちが今年も訪れ、命の尊さを胸に刻んで欲しいと思います。


広島平和記念公園


広島平和記念公園についてここで改めて述べる必要はないと思います。
この日は平日でした。
駐車場は団体バスがいっぱいです。
修学旅行の学生さんたちがたくさん訪れていました。
外国人の姿も多く見ることができました。
外国の人たちもはしゃぐことなく何かを感じるかのようにゆっくりとみてくれていました。

原爆ドームです。










折り鶴

平和記念公園の中に折り鶴がたくさん納められているところがあります。

その折り鶴の前で赤い帽子を被った小学生たちが声を揃えて被爆者を悼み平和を願って歌う姿を見て、声を聴くと、どこもかしこも緩くなった高齢者の私にはぐっとくるものがありました。

きな臭さが漂う世界。

この子たちが平和な時代を生きることを願わずにはいられません。



25年前、息子の願いで広島に来るときには「まるで修学旅行だね」と思っていましたが訪れるとその悲惨さに声を失ったのは私たち両親の方でした。
約25年ぶりに訪れた広島平和記念公園。
多くの方が訪れていました。
原爆の悲惨さに憤り、平和の大切さを胸に刻んだことでしょう。
世界の指導者に平和を求めるのは私たち市民一人一人の思い、行動だと思います。
この地で胸に刻んだことをいつまでも忘れずに持ち続け、声を上げていきましょう。


コメント

このブログの人気の投稿

大心劇場で「追い風ヨーソロ」を観てきました

高校の同級生と一泊二日幡多の旅

九重連山の平治岳で圧巻のミヤマキリシマ