北斎が滞在した小布施を散策してきました

葛飾北斎が晩年、何度も訪れ滞在し、大作を残した小布施。
一度は訪れたいと思っていました。
今回、やっと念願叶い秋の一日を小布施を歩き回りました







小布施へは長野電鉄で

長野電鉄の長野駅は地下にあります。
JR長野駅前から地下に降りていきます。
長野電鉄の改札には長野電鉄乗務区車掌 朝陽さくらさんが出迎えてくれます。
私は長野に地下鉄があるとは知りませんでした。
郊外は地上に出ますが、善光寺のその先までは地下鉄です。






長野駅から小布施駅まで30分少し。
多くの観光客が降ります。
皆さん、思い思いのポーズで記念写真を撮っています。


向かって右側が駅舎とホーム。
左側が両側に線路を抱くホームです。

小布施駅の正面です。
皆さん、一斉に歩き始めました。


 





北斎館

街を歩いていると「北斎館 入口」の看板があり、そちらのほうに向かって歩きます。

さぁ、北斎館です。


館内はフラッシュ、動画以外は撮影ができます。








東町祭屋台です

見事です。

屋台の天井絵の「龍」です。

もう一つ展示されている屋台です。















天井絵の「鳳凰」です。













岩松院の天井絵「鳳凰」
町の中心部にある北斎館から歩き始めるとすぐに郊外に出ます。
山裾に岩松院があります。
ここに北斎が描いた大きな天井絵「鳳凰」があります。



院内は撮影もスマホも禁止です。
昼間は30分おきに説明があります。

北斎が50㎝四方の程度の原画を描き、
それを娘の応為や弟子たちが協力し6.3m×5.5m、12分割に拡大し描き上げた。
仕上げ前に北斎は江戸に帰った。
12分割して描き上げた天井絵を釣り上げて組み合わせると少しずれたところができた。
もし、その場に北斎がいたらそのままにしたのかどうか、わかりません。

見る方向を変えると鳳凰が立体的に見えてくるようでした。

現在は屋内照明で見ている天井絵だが、照明を消すと・・・
驚くようなことが起こりました。

自然採光で見ることを前提に描かれた天井絵です。
秋の夕暮れの自然採光で見ると一層幻想的なのだそうです。

なぜ小布施なのだろうか?

北斎は晩年、3度、小布施を訪れているそうです。
江戸から小布施までの240㎞を8日間、1日約30㎞で歩きとおしたそうです。
その時北斎は88歳。
驚くべき健脚です。
そして、その3度で延べ1,100日間も小布施に滞在しています。
よほど小布施が気に入ったのでしょう。

旅の路銀だけでなく滞在費。
それも北斎だけでなく時には娘さんやお弟子さんも一緒です。
随分と物入りだったでしょう。
それを高井鴻山という豪農商が招待し、負担しています。
なぜ小布施の一個人がそのようなことができたのでしょう。

一日、小布施を歩いただけなので間違いがあるでしょうが私の理解です。

小布施は宿場ではないものの北国海道と善光寺参りの参道が交わるところであり人の往来が多くありました。
農業は米と栗。
米から酒も造りました。
小布施は天領で栗を献上していたそうです。
栗は縄文時代からクルミと並んで貴重な食糧でした。
時代が下っても飢饉の際の貴重な食糧でした。
また乾燥した栗を臼と杵で突いたものは保存・携行食になりました。
臼で突くことを搗(か)つと言い、できたものを搗栗といいます。
延喜式では「搗栗子(かちぐり)」として記されているそうです。
「勝栗」とも表記し、勝ちの語句が縁起が良いことから、武家では戦勝の祝いに榧の実とともに供えられたとも。
その貴重な栗を献上する大事な場所だったんですね。

今でも小布施の栗は有名で、町のあちこちで栗のお菓子を売る店があり多くの人が並んでいました。
それと赤穂の塩を商うことで富を築いたそうです。





人の出入りが多く、物も集まり月に6回、6斎市という市を開いていたそうです、

この地の高井鴻山という豪農商が江戸に出て学問をなし、本人も文化人であり江戸の文化人とも交流があり、北斎を招待しました。
左の写真は鴻山記念館の通りです。
高井鴻山のような文化人を育み、そんな文化人のさぽーとがあり北斎は小布施にたびたび訪れ多くの作品を残すことができました。






人と物が行き交い、富が集まり、その富をまた人に使う。
江戸時代は粋な時代だったと思います。
ただ、現代の小布施はちょっと期待外れ。
もっと北斎の香りのする町かと思ってましたが、栗ばかりでした。

でも、これでまた1つ帳が消えました。

















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