「絵師金蔵 赤色浄土」を読みました
幕末の動乱期に土佐で活躍した絵師・金蔵、絵金。
その生涯を描いた「絵師金蔵 赤色浄土」を読みました。
狩野派の絵師だった金蔵が、狩野派とは全く違う屏風絵を描くに至った生涯が描かれていました。
興味深く、面白く読みました。
「絵師金蔵 赤色浄土」 藤原緋沙子著 祥伝社
藤原さんは高知県仁淀川町出身なんですね。
私は今までこの方の本を読んだことはありませんでしたが、著書も多数あります。
祥伝社のHPにはこの本を次のように紹介しています。
「作家生活20周年記念作品
幕末の土佐に生まれ「絵金」と呼ばれた、艶やかな色彩で見る者を
虜にした異才、激動の生涯。
「血の色は厄払いじゃ。万民の不安を払い落とすのじゃ」
幕末の動乱は土佐国も大きなうねりで呑み込んだ。
様々な思想と身分の差から生じる軋轢(あつれき)は、人々の命を
奪っていった。
金蔵はそんな時代に貧しい髪結いの家に生まれた。
類まれなる絵の才能を認められ、江戸で狩野派に学び「林洞意美高」(はやしとういよしたか)
の名を授かり凱旋。国元絵師となる。
しかし時代は金蔵を翻弄する。人々に「絵金」(えきん)と親しまれながらも、
冤罪による投獄、弟子の武市半平太(たけちはんぺいた)の切腹、そして、
土佐を襲う大地震……。金蔵は絵師として人々の幸せをいかに描くかに
懊悩(おうのう)する。やがて、絵金が辿り着いた平和を願う究極の表現とはーーー。」
https://www.sun.s-book.net/slib/slib_detail?isbn=9784396636449
髪結いの子として生まれ、狩野派の絵師になる
絵金さんの生まれについては諸説あるようです。
この本では髪結いの子として生まれたとしています。
小さい頃から絵の才能があり、町内の大店の主にして文人に認められ援助を受けます。
この旦那さんとは何だかいわくがありげです。
土佐で力を付け、周りの協力を得て、江戸に行き、狩野派で修業します。
狩野派の絵師として認められ、土佐に戻り、土佐藩のお抱え絵師となります。
絵師として順風満帆に歩んでいた絵金さんですが、周りの嫉妬によって贋作作りの疑いをかけられます。
結局は、無実となります。
この一件は絵金さんが土佐藩の絵師として活躍することをよしとしない人がいることから起こったことだと考え、土佐藩のお抱え絵師を辞し、一回の町の絵師として生きて行くことを選びます。(p178)
その後、幕末の動乱期に親友や弟子の武市半平太などを亡くします。
また安政の大地震で多くの人がなくなるのを目の当たりにします。
そうした経験を経て、狩野派とは全く異なる屏風絵を描いていくことになります。
狩野派とは全く違う絵を描くようになる
近頃金蔵が描く屏風絵は、狩野派の絵師や江戸の浮世絵師が見れば仰天するような構図と強烈な色使いである。
血の色よりも赤い色、発色の良い緑色、そして漆黒の黒、この三つの色が全体の色合いを構成して、絵の構図もさることながら、見る者に強く訴える絵になっている。
特に夜になって百目蝋燭の明かりで見ると、絵の人物が生きているように見えた。(p276)
静謐で品格をそなえた狩野派の絵とは真逆の、人間の生と死、善と悪を真っ向から描いたものだった。(p278)
赤岡との由縁
確か高知城の中の資料館で読んだ記憶では、絵金さんは何らかの罪で物部川から西への立ち入りを禁じられ、それで赤岡に住み、そこで世話になった人たちに屏風絵を描いた、だから赤岡に沢山絵金さんの作品が残っている、とあったように覚えています。
この本では、そうしたことは書かれていません。
赤岡の須留田八幡宮で行う歌舞伎の芝居絵の作成を依頼され、それで赤岡に滞在するとなっています。
更に赤岡の廻船問屋湊屋にはおばさん(お母さんの腹違いの妹)が嫁いでいて、良くしてもらい、長く逗留しています。
物語としてはそれもありなんだと、思いますね。
異時同図法
本の中で「義経千本桜」三段目の「鮨屋」や「浮世柄比翼稲妻」第2幕の「鈴ヶ森」、「伽羅先代萩」の「政岡忠義の段」を作成する場面が出てきます。
私もよく知っている絵です。
その絵の意味も書かれていてす。
絵金さんは歌舞伎などの演目を題材にして、一つの画面に複数の場面を描きます。
時間の推移を表す「異時同図法」です。
こうした絵金さんの作品を見て、当時の土佐の人々は「歌舞伎のあの場面だ」と見入ったのでしょう。
当時の土佐では神社の祭りなどで歌舞伎などを上演していました。
そして、人々はそれを楽しみにしていました。
私を振り返ると歌舞伎を見る機会がなく、絵金さんの作品から歌舞伎の場面をすぐに結びつけることができません。
絵金さんの時代の人々には歌舞伎が共通の素養だったんですね。
こうした物語を知って絵金さんの絵を見るとまた、違った見え方がします。
高知には絵金さんの作品が200点近く残っているそうです。
神社の夏祭りを彩る絵馬提灯、屏風絵、台提灯の形で残っています。
台提灯は絵馬提灯よりも大がかりで、大きな台を組んだ中に芝居絵をはめ込んだものです。
これに灯りをともすと絵金さんが描いた絵の中の人物は、まるで今、この台の舞台で演じているかのように見えます。(P239)
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