世界文化遺産 斎場御嶽(せーふぁうたき)

 
世界文化遺産 斎場御嶽(せーふぁうたき)に行ってきました。
写真撮影は可でしたが、SNSなどへの掲載は不可とのことでした。
ネットにある資料を使いながら私が感じたこと、知り得たことを紹介したいと思います






斎場御嶽については上のリンクでご覧ください。
御嶽(うたき)は沖縄での聖地のことです。
聖地の中でもこの斎場御嶽はもっとも位の高い聖地です。


沖縄の自然崇拝

私は勉強不足で「神道ですか?」と聞いてしまいました。
「沖縄では自然を崇拝します。神道ではありません。」とやんわりと教えていただきました。
神道は神様を呼び出すために二礼二拍手をします。
御嶽では目の前の自然を拝むので呼び出す必要がありません。
頭を垂れ手を合わし拝みます。

斎場御嶽の後に平和記念資料館に行きました。
そこで明治時代の琉球解体、皇民化政策、神道の強制を知りました。
元々、沖縄には神道はありませんでした。
日本政府に神道を強制されました。
そのことを知らずに「神道ですか?」と聞いた勉強不足、うかつさを恥ずかしく思いました。

琉球解体と斎場御嶽

「琉球解体」とは明治政府が沖縄にあった琉球王国を日本国に併合する一連の動きをさします。
沖縄には1400年頃から琉球王国という国がありました。
江戸時代の琉球王国は、薩摩藩と中国の両方に従っているという複雑な状態にあり(日中両属状態)、日本の一部だったわけではありません。
1867(慶応3)年に江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還をし、翌1868(明治元)年に明治政府が樹立します。
中央集権的な近代国家をめざす明治政府は、琉球王国を日本に組み入れていきます。
1872(明治5)年に琉球王国を琉球藩という名前に変えさせて、国王の尚泰を琉球藩王としました。
1879(明治12)年、明治政府は軍事力を背景に無理やり琉球藩の廃止・沖縄県の設置を実行しました。
国王の尚泰は首里城を日本に明け渡して、東京へ移住することを強制されたのです。
これにともない琉球と清国の冊封(さくほう)関係は廃止され、450年間続いた琉球王国は解体されました。

琉球王国で斎場御嶽は最高の聖地でした。
王国の兵士たちが警備し、一般の人間の立ち入りはできませんでした。

斎場御嶽の中に二つの壺があります。
真上には鍾乳石が垂れ下がっています。
鍾乳石の根元の天井の上には神木が生えています。
神木に降り注いだ雨は土に浸みこみ鍾乳石を伝って滴下してきます。
その浸透滴下してきた聖なる水を壺に受け留めています。
壺を大晦日に首里城に運び、正月にその水でお茶を点て王様が飲むと一年の無病息災が叶えられるとしていました。
その当時は壺は金製だったそうです。
琉球解体で王国がなくなり、斎場御嶽の警備もなくなりました。
いつの間にか金の壺もなくなっていました。
今では陶器の壺が置かれています。

なんともやるせない話です。

沖縄戦と斎場御嶽

第2次世界大戦での沖縄戦では斎場御嶽周辺も戦場となりました。
アメリカ軍は上陸前に艦砲射撃で徹底的に攻撃しました。
斎場御嶽は聖地だからといった配慮はありませんでした。
斎場御嶽の中にある池は弾着でできた穴に水が溜まっているものです。

三庫理(サングーイ)の拝所です。

この右手の岩が大きくえぐれています。
艦砲射撃で損傷したと言われています。

琉球王国当時、聖地であり樹木を伐採することはありませんでした。
しかし、艦砲射撃で消失してしまいました。
ですから現在の斎場御嶽に生えている樹木はすべて80年未満の”若木”ばかりだそうです。

観光スポットの一つとして立ち寄った斎場御嶽
聖地としての静謐さと次々訪れる観光客
その裏にこうした歴史があることを知ると静謐さの裏に秘めた思いが感じられました





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