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あたご劇場で映画「ひまわり」を観てきました

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映画「ひまわり」を観てきました。 「ひまわり」は、1970年の作品です。 第2次世界大戦下のイタリア夫婦の物語です。 結婚するが幸せもつかの間、夫はソ連戦線へ送られてしまいます。 終戦後も戻らない夫の行方を追って妻(ソフィア・ローレン)はソ連へ向かい・・・ 戦争によって人生を引き裂かれた悲しい物語です。 ロシアのウクライナ侵攻を機に、日本全国で上映されるようになっています。 あたご劇場に観に行ってきました 高知市内に昔からある映画館・あたご劇場。 私は中高生の頃は、ピンク映画専門館だったように覚えています。 最近は、話題作をかけています。 劇場は古いので若い人の姿を見ることはありません。 あたご劇場の前に行ってみると、え!並んでいる。 私はあたご劇場の切符売り場に並んでいる光景は初めて見ました。 今日は2階席から観賞します。 2階席から1階席を見ると、半分近くの席が埋まっています。 私はこれほど席が埋まっているあたご劇場は初めてです。 終演後、劇場の出口で関係者の人に聞くと、「こんなにたくさんの方に来てもらってうれしく思います。」とのこと。 ウクライナを応援する気持ちの方がたくさん来ているのでしょう。 美しいひまわり畑の意味するもの 映画の題名にもなっているひまわり。 劇中で、戦場から帰らない夫を探して妻がひまわり畑に行き付きます。 そこで地元の女性から「このひまわり畑の下にはイタリア兵、ロシア兵、地元の子供から大人、老人の遺体が埋まっています。ドイツ兵に、穴を掘らされ、埋められたのです。」と説明を受けるシーンがあります。 ロシア軍がウクライナに侵攻を始めた頃、ウクライナの女性がロシア兵に立ちはだかり 「ここへ何しに来た。ひまわりの種をポケットに入れて行け。お前が死んだら、そこでひまわりが花を咲かすだろう。」と言ったことが報じられました。 この映画の物語を知って思い出すと、その言葉の意味、恐ろしさを感じます。 戦争で一人一人の人生が狂わされます ウクライナ、ロシア双方でたくさんの死者が出ています。 死者として報じられるのは数字です。 膨大なその数字を構成する一つ、一つの数字に一つ、一つの人生があります。 希望があります。 それが、死者の数字として数えられたら、もう、その人生は途切れ、希望は無くなってしまいます。 もうこれ以上死者の数が増えないことを願っています。 あ

この季節の風物詩 ラッキョウを収穫し、漬けました

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この季節の風物詩。 我が家のラッキョウを収穫し、浸けました。 畑の片隅でラッキョウが育っています 畑の片隅に植えているラッキョウ。 肥料も施さず、ほったらかしですが、けなげにも育っているようです。 収穫時期は5月から6月です。 明日は雨が降りそうなので、収穫することにしました。 地面の下にきれいな白いラッキョウ 掘って見ると、白いラッキョウがゴロゴロ出てきます。 土壌中にそんなに硫黄が含まれているのでしょうか? 子供のころは苦手だったラッキョウの香りがいつのころからか食欲をそそるようになりました。 ラッキョウのあの独特の香りは硫黄化合物の香りだそうです。 硫黄は光合成では作ることができません。 ということは、畑の土壌からラッキョウに硫黄が移動したということです。 我が家の畑は無農薬、無肥料です。 土壌にある硫黄は徐々にラッキョウに吸収され、土壌中の硫黄は少なくなっているはずです。 でも、毎年、同じ場所でラッキョウがたくさん収穫できます。 土壌中には高い濃度で硫黄が含まれているんでしょうね。 土壌に硫黄ねぇ。 どうも不思議です。 火山地域ではラッキョウが育ちやすいのでしょうか? 今日は一畝分を収穫 さて、硫黄のことをぶつぶつ言いながら、次々にラッキョウを掘り出しました。 一度に収穫しても、後の作業が大変なので今日は二つの畝のうちの一つを収穫しました。 さぁ、きれいにお掃除をします あらかた泥を落として流しに持ってきます。 気合を入れましょう。 一つ一つ洗って、根と葉を落とします。 そして、表面の薄皮を取り除きます。 洗ってざるにあげるときれいなラッキョウ! リタイヤして日々、農作業をするようになって辛抱強くなったように思います 畝を作る、苗を植える、草を引く、収穫した作物をきれいにする。 終わりはありません。 季節が移り変われば、また、昨年と同じことをします。 収穫という楽しみを実現するためにコツコツ、黙々と今日できることをします。 誰に頼むわけでもない。 自分のできることを、できる時期に、できる範囲でコツコツと。 楽しみながら続けています。 今日はひと瓶のラッキョウ漬けができました 今日はひと瓶のラッキョウ漬けができました。 ラッキョウ漬けは、晩酌の時のちょっとした口直しになります。 この一瓶で我が家の一年分です。 あと一畝のラッキョウが残っています。 また、気合を

さようなら 十津川警部

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  西村京太郎さんの十津川警部シリーズの最終話「土佐くろしお鉄道殺人事件」を読みました。 西村京太郎さんが3月3日に亡くなられました 「十津川警部シリーズ」などたくさんの本を書かれた作家・西村京太郎さん。 3月3日に91才で亡くなられました。 とにかくたくさんの本を書かれています。 600冊以上だそうです。 累計発行部数は2億冊! 偉大な作家でした。 頼もしい十津川警部 よくあるミステリー小説では、無能な警察の捜査をしり目に名探偵が切れ味よく事件を解決します。 西村京太郎さんの「十津川警部シリーズ」は、頼もしい十津川警部を描きました。 地に足のついたミステリーでした。 新しい本が出るたびに追いかけて読むことはありませんでしたが、 読む本に困ったとき、手に取るとはずれのない作家さんでした。 「土佐くろしお鉄道殺人事件」は西村京太郎さんの最後の本 デイリースポーツの記事に次のようにあります。 「昨年末から体調を崩し入院していた西村さんだが、1月には新潮社から「土佐くろしお鉄道殺人事件」を刊行。 同社文芸編集部の公式ツイッターによると、昨年暮れにファクスで入院すること連絡してきたといい、「土佐くろしおの原稿は書き終えていたのでよかったです」と記されていたという。」 西村京太郎さん死去 ミステリーの大家「書き終えて良かった」最後まで自筆で原稿用紙/芸能/デイリースポーツ online (daily.co.jp) 少しいらだっていた十津川警部 地元のローカル鉄道の名前のついた「土佐くろしお鉄道殺人事件」。 出版日を見ると今年の1月です。 西村さんが亡くなる直前の本ということもあり、手に取りました。 それまでの十津川警部の印象からすると今回の十津川警部は何だかいら立っているようでした。 登場人物に、今の世の中の不条理さを訴えさせています。 (書名は忘れましたが、島田壮司の吉敷竹史シリーズに、裁判所の前で大声でとうとうと冤罪について主張を述べるシーンが出てきました。その場面を思い出しました。) また、十津川警部は蒲田の小さな町工場の技術に愛情を感じ、感情を移入させます。 今までの十津川警部からは思いもよらない十津川警部です。 物語の切れはいいものではないように思います。 91才の西村京太郎さんが何かを書き残しかった気持ちの表れだと思いました。 神奈川県湯河原町に西村京太郎記念館

文中で「同志少女よ 敵を撃て」の文字を見た時、あなたは何を感じ、思うのでしょう?

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  「同志少女よ 敵を撃て」(逢坂 冬馬、早川書房)を読みました。 最後、一気に持って行かれました。 この本は2022年本屋大賞を受賞し、世間で評判になっています。 「少女」という言葉に胸をときめかせる年令ではありません。いや、逆に「少女」とついているタイトルに抵抗を覚えますが、独ソ戦争が舞台の小説と聞いて手に取りました。 出版社の早川書房による紹介 評判の本ということでネットで検索するとたくさんの書評がヒットします。 以下は、出版社の早川書房のHAYAKAWA ONLINEにある紹介です。 同志少女よ、敵を撃て | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン (hayakawa-online.co.jp) 「独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために……。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?」 物語の舞台は人類史上最悪の「独ソ戦」 独ソ戦は第2次世界大戦の中でのドイツとソビエト連邦の戦いです。 ウィキペディアによると第2次世界大戦の死者数は5,000万人から8,000万人。 とんでもない数です。 その中で日本が約300万人。当時の人口の約4%に相当します。 ドイツが700万人から900万人。ソビエト連邦が2,100万人から2,800万人! ドイツとソビエト連邦を合わすと3,000万人からの人が亡くなっています。 物語では、スターリングラードの攻防戦など多くの戦いが描かれ、現代人の感覚では想像できない数の被害が出てきます。 その戦闘での死者数の多さは小説として誇張されたものではなく、事実に基づいていたのです。 この事実を知ると5月9日の戦勝記念日がロシアにとっていかに重要な日か理解できます。 これ以上、私が拙

今朝(5月8日)の高知新聞に木造掩体の記事が掲載されました

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  5月8日の高知新聞に「県内初 木造掩体の写真」の記事が掲載されました。 掩体とは「軍用機を敵の攻撃から守るための格納庫」です。 私は、GWに掩体を観に行きました。 4月28日に前浜掩体群を観に行きました。 そのことを次のブログにあげいます。 https://taichanretiredlife.blogspot.com/2022/04/blog-post_28.html また、戦争遺跡の一つのトーチカを観に行ったことを次のブログにあげいてます。 https://taichanretiredlife.blogspot.com/2022/05/blog-post.html 興味のある方はこちらもご覧ください。 高知新聞の記事に戻ります。 木造掩体の写真は終戦翌年に撮影か 高知新聞から引用します。  太平洋戦争時に南国市前浜で造られた軍用機の格納庫、掩体(えんたい)のうち、戦後取り壊された木造の掩体を撮影した写真がこのほど、同市内で見つかった。現存する掩体7基はいずれもコンクリート製で、市生涯学習課などによると、木造掩体の写真が高知県内で確認されたのは初めて。全国的にも数例しかないといい、専門家は「精巧に造られた木造掩体の姿を今に伝える貴重な史料」と驚いている。  発見したのは、本県出身の元海軍航空隊員、故赤松貞明さんの記念館開設に取り組んでいる準備会の代表、福井正洋さん(40)=高知市。南国市で掩体の保存や清掃にも携わっており、3月下旬に活動の一環で地元の高齢男性を訪ねた際、写真を提供された。  写真には男性の母親(故人)が書き添えたとみられる「高等2年」「木造えんたいにて」との文字も。母親は「大湊史談」(発行年不明)に寄せた手記で写真に触れており、1946年3月に地元の尋常小学校(国民学校)高等科の卒業生を撮影したものと記している。撮影場所の詳しい記述はなく、同課も写真からは木造掩体が存在した地点は分からないという。  戦争遺跡保存全国ネットワーク共同代表を務める高知市の平和資料館「草の家」副館長、出原恵三さん(66)は「終戦を機に、写真を含む軍関係資料はほぼ焼却処分されたため、木造掩体の実態はほとんど分かっていなかった」。前面上部には迷彩も施されていると指摘し、「ここまで鮮明な姿を写した写真が見つかった意義は大きい」と話している。(海路佳孝) 高知新聞からの引用

トーチカや つわものどもが夢の跡

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  高知空港周辺にある戦争遺跡の一つ・トーチカを観に行きました。 トーチカは物部川の堤防にあります 物部川堤防から河口方向を観た写真です。 私のジョギングコースです。 高知高専のグランドの南。 物部川の右岸、河口から1kmの道標のすぐ下です。 看板も何もありません。 ここにトーチカがあると自分で調べて来ないと気が付かないと思います。 私自身、よく通る堤防ですが、トーチカがあることを知りませんでした。 前日、ジョギングでこの前を通った際にも、「掩体は語る」の戦争遺跡の地図だとこの当たりだと思いながら、どれがトーチカか分かりませんでした。 犬の散歩中の地元の方にお聞きして「あ、これか」と分かった次第です。 トーチカだと知らないと、古井戸のようにしか見えません。 トーチカの写真を撮っていると自転車で通りかかった地元の女性が話しかけてきました。 「トーチカを撮りゆうかね。」 「はい。この前、前浜の掩体を見て、ここにトーチカがあると知ったので来てみました。」 「高専の若いし(若者)に言うても、トーチカの言葉さえ知らん。 平和な時代になってえい。 戦争はいかん。 けんど、日本がどんな戦争をしたか知っちょらんといかんと思うがねぇ。」 おっしゃる通りだと思います。 トーチカは直径1ⅿ程度の大きさでした 失礼してトーチカの上に上がりました。 直径は1m程度です。 定員は1名でしょうね。 コンクリートの厚さは20㎝もあり、頑丈に作られています。 上面の中央に穴が開いています。 ここから頭を出して、敵機の襲来を確認していたのかもしれません。 滑走路の方向に大きな開口部があります トーチカの南側に大きな開口部があります。 資料を見ると20mm機関銃を据え付けていたそうです。 開口部の方向は高知空港の滑走路、海側からのアプローチの方向を向いています。 高知空港に駐機している練習機「白菊」を狙って高度を下げてきた敵機を狙ったのでしょう。 開口部の先を見ていると、全日空機が海側に離陸していきました。 距離は結構あります。 この距離で20mm機関銃で撃ち落とすことができたのでしょうか? 直径1mの狭い空間で20mm機関銃を撃つと凄まじい衝撃と音がしたことと思います。 ちょっと生まれてくる時代が早ければ、わたしがこのトーチカに一人で入って敵機の襲来に備えていたかもしれません。 トーチカや つわものど