邪馬台国は土佐にあった! 「はじまりの国、土左」
九州説と畿内説で論争が続く邪馬台国が実は土佐にあった、という論証本です。
興味深く読みました。
この論証が多くの論証ところなるところは次の点でしょうか
(1)神武東征で土佐に来た
(2)卑弥呼は初代の神武天皇に続く4代目の天皇である
(3)魏志倭人伝の「倭に至る行程」をそのまま読むと土佐に行きつく
はじまりの国、土左 日本建国と邪馬台国-真実が目醒める時 | リーブル出版
高知県の在野の歴史研究家・橋詰和人さんが文献を読み込み、仮説を立てコツコツと現地調査を行って「邪馬台国は土佐にあった」説を組み立てました。
残念ながら橋詰さんは2022年10月に亡くなりました。
橋詰さんが主宰していた「土佐上古代史研究所」の会員有志たちが「はじまりの国、土左」製作委員会を立ち上げ、そして地元のリーブル出版から出版の運びとなりました。
リーブル出版のHPには次の紹介があります。
邪馬壹国(邪馬台国)は土佐だった!
歴史の穴を「土左」が埋める!魏志倭人伝との整合性に着目。
魏志に記された倭国の方位と距離を「素直に読み解く」と高知に辿り着く。
いまだ古代史最大の謎とされる卑弥呼の国は、日本列島のいったいどこにあったのか。
古代史の研究者・橋詰和人の提唱する『邪馬壹国土左説』には、この大きな謎への答えがある。
その入門編として本書が重点を置いたのは、神武天皇による日本の建国が、土左(土佐)、つまり現在の四国・高知県を舞台に行われたこと、土左の地で何が起こったのかだ。
卑弥呼の邪馬壹国も土左にあったことを証明する試みである。
読後、振り返って思い出す要点を抜き出してみましょう。
神武東征で土佐に来て、日本を建国した
神武東征(じんむとうせい)とは日本の神話です。
ググるとたくさんの紹介ページが出てきます。
ウィキペディアでは次のように説明しています。
神武東征(じんむとうせい)とは、磐余彦尊が日向を発ち、奈良盆地とその周辺を統治していた長髄彦を滅ぼした後に、初代天皇(神武天皇)の位についたという一連の説話をさす用語。神武東征 - Wikipedia
つまり、後の神武天皇が九州を発ち、畿内に辿り着き、そこで日本を建国し初代天皇に着いたという話です。
それを「はじまりの国、土左」では「そうじゃない。神武東征で土佐に来ている。そして土左で日本を建国し、初代天皇に就いた。」と言います。
次の図は土佐に至る「神武東征」です。九州を出た一行は宿毛を経由し、高知県東部の唐浜(安田町)に上陸しました。
この時代は今の高知市内は海でした。
物部川河口に広がる物部平野を中心に日本を建国しました。
そして西暦57年、龍河洞で建国宣言をし、初代天皇に就きました。
卑弥呼は第4代天皇
天王の系図です。
下が宮内庁の系図であり、ここには卑弥呼の名前はありません。
一方、上が土左説の天皇系図で、第5代天皇として卑弥呼の名前があります。
神武東征で土佐で建国した「やまとのくに」を卑弥呼が率いていました。
従って「邪馬台国」は「やまたいこく」ではなく「やまとのくに」の間違いです。
魏志倭人伝の「倭国への道」を素直に読む
魏志倭人伝に倭国への行程が記されていて、これをもとに邪馬台国の所在地を比定しようと様々な解釈が行われています。
橋詰は九州説も畿内説も自説に導こうと魏志倭人伝を素直に読んでいないと言います。
本書では他説が曲解しているところも指摘していますが、長くなるので割愛します。
興味のある方は是非、本を取ってみてください。
橋詰の説は次の通りです。
(1)末盧国を現在の博多と比定します。
(2)伊都国を現在の別府と比定します。
(3)伊都国から邪馬台国へは南へ水行10日、陸行1月を素直に読めば、現在の博多から船で高知県の小筑紫に上陸し、陸で土左に至る、となる。
私は(1)(2)は素直に読むことができました。
でも、(3)の水行10日はともかく、陸行1月で土左はちょっと厳しいな、と感じました。
なぜなら、「南」のはずが「東」に行っています。
それにわざわざ380㎞もある難路の陸を行かなくても船で行けばいいはずです。
橋本は陸で行く理由を次のように推測しています。(p246)
「安易な海路が別途に開けているのに、どうしてこのルートが使用されていたのか、今少し検討してみたい。
まず、一つの理由は戦略的なものである。
いかに主君国と言えども、他国に対して、倭国が遠い所に在る国であると共に、険しい狭隘な山岳地帯の道を通らなければならず、もし攻略しようとしても大軍の塀を仕向けることは困難であると認識させるためである。
もう一つの理由としては、現在でもそうであるが、少し天気が悪いと太平洋側の土佐湾は荒波となり、たびたび船が難破していたので要人の航海は控えられていたのかもしれない。」
その後、土佐での人口が増えすぎて(現在の高知県の人口より多い70万人)、畿内に国を移しました。
土左での遺跡や文献の多くは白鳳地震で失われたため、土左に歴史を検証する史料が残っていない。
さて、皆さんはどうお感じになりましたか。
私は「神武東征で土左に来て邪馬台国(やまとのくに)を建国し、龍河洞で建国宣言をして初代天皇に即位した」、「魏志倭人伝を素直に読めば土左に至る」はちょっと苦しいと思っています。
でも、土左には古代に中央に繋がる歴史があったと思っています。
現在、高知県には3つの国宝があります。
豊楽寺薬師堂(大豊町)、金銅荘環頭大刀拵大刀身(日高村小村神社)、古今和歌集巻第廿(高野切本)(高知市・県立高知城歴史博物館)の3つです。文化財 | 高知県
豊楽寺 – 高知県長岡郡大豊町
豊楽寺(ぶらくじ)は正式には大田山大願院豊楽寺といい、神亀元年(724)名僧行基により創建されたものと伝えられます。
また、別名 柴折薬師とも称され、愛知県の鳳来寺の峰薬師、福島県の常福寺の嶽薬師と共に日本三大薬師の一つに数えられています。(豊楽寺HP)
また、「豊樂寺は聖武天皇の勅願によって行基菩薩の開基と伝える。(豊楽寺薬師堂 文化遺産オンライン)
なぜ、土左の大豊町に聖武天皇が日本3大薬師堂の一つを建てるよう命じたのか。
不思議です。
小村神社(日高村)には金銅荘環頭大刀拵・大刀身
高知県高岡郡日高村の小村おむら神社に伝わるご神体。
古墳時代に造られた伝世品(発掘した出土品以外)としては日本最古の刀剣。各地の古墳で出土する刀と同様に、持ち手が環頭かんとうであるところが最大の特徴です。デザインのポイントは金銅製の「双龍銜玉こうぎょく」の環頭と「倒卵形」の鍔つば。平安時代に確立する刀身の反った「日本刀」とは違い、直刀です。
刀身は長さ68.3センチ、拵えは鞘の長さ92.0センチ、柄の長さ19.4センチ。それぞれの制作年代も同時期。
古墳時代からの伝世品で唯一の国宝刀剣
拵えと刀身がともにそろっているのは平安時代の刀でも珍しく、おそらく1400年にわたり、現地で古墳時代のものが伝えられてきたのは、日本でも例が少なく、極めて貴重で、国宝の伝世品の刀剣では唯一です。(飛鳥時代では四天王寺に2振りの国宝が伝世、出土品では埼玉県のさきたま古墳群出土品など)
1955年に専門家の調査で古墳時代の刀であると判明、翌56年に重要文化財、58年に国宝に指定されました。刀身はさびていたが新たに研ぎ直したところ、かなり良い状態であることがわかりました。
なぜ、古墳時代の銘刀が土佐の田舎にあるのでしょう?
白鳳時代に現在の法隆寺と同じ規模の寺院
比江廃寺は、出土の古瓦から白鳳時代後期の古代寺院跡である。
最近の発掘によって、金堂跡はすでになくなっていることが判明した。
古くから遺構として、塔跡の心礎(しんそ)のみが残っている。 江戸時代には、心礎の周辺や金堂の礎石も残っていたが、国分川(こくぶがわ) の改修に使用され心礎を残すのみとなった。
心礎は縦3.24m、横2.21mの砂岩に、径81cm、深さ9cmの柱孔(ちゅうこう)と、その柱孔の下に径15cm、深さ12cmの舎利孔(しゃりこう)がある。
柱孔には、塔の心柱(しんちゅう)の根本をはめ込み、その下の舎利孔に小さな容器に入れた仏舎利(ぶっしゃり)(仏様の御骨)を納めた。
柱孔の径に40倍すると、当時の塔の高さが出てくる。 それは 32.4mで、現法隆寺の五重塔の高さとほとんど変わらない。
白鳳時代とは飛鳥時代と天平時代の間の、7世紀後半から8世紀初めまでを指すそうです。
その時代に法隆寺と同じような大きさの五重塔がこの高知に!?



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