フクシマのいまはどうなっているんだろうと思い訪れました

 
2011年3月。東日本大震災の津波が福島原発を襲いました。
放射性物質を世界中にばらまく大惨事が避けられない、日本はどうなるんだろうと国民、いや、世界が固唾をのんで「フクシマ」を写すテレビ画面にかじりつきました。
あの不安な日々から13年。
ふと、フクシマは今どうなっているんだろうと思い7月末に訪れました。





高速道路には放射線量の測定器

写真では小さくてわかりませんが、高速道路脇に放射線量の計測器が設置され運転手に放射線量を知らせます。


いよいよ原発事故現場に近いんだ、と緊張します。



広い範囲が帰宅困難区域

町のあちこちに「帰宅困難区域」の看板が立ち、道路は柵でふさがれています。



大熊町、双葉町や浪江町などはいまでも帰宅困難区域に広く指定されています。


今でもこんな広範囲で帰宅困難区域が指定されているとは思っても見ませんでした。
新たに造成された臨海工業地帯と見まがう一帯が広がっています。
津波で壊滅した集落があったところです。
震災瓦礫は撤去され、きれいに区画整理をしています。
ここに集落があったとは想像できません。
この一帯も帰宅困難区域に指定されていて、かつての集落の賑わいが戻ることはありません。
ここでも放射線量の測定器が設置されていました。

原発に近かったこの辺りの放射線量は高かったそうです。
表層土を約3mの深さまで掻きとり、汚染されていない土壌を入れました。
そのため、放射線量は低くなっています。
福島県内のほかの地域よりも低いそうです。

暑い中、除草作業をしていました。
刈り取った草は未だに焼却ができないため、フレコンバッグに詰め、一時保管場所に移送していました。
これでは農業ができません。






原発事故の復興は未だ緒に就いたばかり

原発事故はもう過去のものと思っていましたが、13年が経っても原発事故の影響が広い範囲に残り、解決のめどなんてまるで立っていません。
さらに世界でも前例のない困難な取り組みである燃料デブリの取り出しを含む廃炉作業はいつ終わるのか、人類の科学技術で解決できる課題なのか誰も分かりません。

遠くから原発建屋が見えました。
背の高いクレーンが見えます。

手前には汚染物を入れたフレコンバッグが置かれています。






原子力は夢のエネルギーと信じて疑わなかった我々の責任

原発は安全だ、夢のエネルギーだ、原発が来れば雇用が生まれる、税が入ると歓迎した結果がこの有様です。
なんてことをしてしまったのでしょう。
原発誘致を歓迎した人たちだけでなく、原発で発電した電力を受け入れてきた私たちもこのフクシマの現実から目をそらしてはいけないと思います。





原子力災害伝承館に行くと、制服姿の中学生のグループが来ていました。
語り部の話を聞き逃すまいと耳を傾け、熱心にメモを取っていました。






まだ大人になりきっていない彼ら彼女らの後姿に「すべて大人がしでかしたことです。その大人には時間が足りません。若い君たちに後始末を押し付けることになり申し訳ない」と心の中でつぶやきそっと頭を下げその場を離れました。


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