「蒼天見ゆ」(葉室麟)を読みました

 
年末の風物詩「忠臣蔵」。
今年も「忠臣蔵」がBSで放映されていました。
宿敵吉良上野介を討ち取った後、亡君浅野内匠頭が眠る泉岳寺までの約10kmを堂々と更新しています。
そしてその赤穂浪士の隊列に向かって江戸庶民が喝采を送る場面では、こちらも拍手を送りたい気持ちにさせられます。
江戸時代にはその権利が認められ、また、武士の誉れとも言われた「仇討ち」。
最後の「仇討ち」を題材にした「蒼天見ゆ」を読みました。



「蒼天見ゆ」葉室麟 [角川文庫] - KADOKAWA

角川文庫のHPに次の紹介が載っています。
「父の無念を 晴らせるか。日本史上最後の仇討ちを描いた歴史長篇。
時代が変われば、生き方も変わるのだろうか――。
武士の世が終わりを告げたとき、“最後の武士”が下した決断とは。

一生を、命を、そして武士の矜持を懸けて挑んだ、日本史上最後の仇討ち!

日本中が開国と攘夷に揺れる時世。
西洋式兵術の導入を進めていた秋月藩執政・臼井亘理は、ある夜、尊攘派により妻もろとも斬殺された。
だが藩の裁きは臼井家に対し徹底して冷酷なものだった。
息子の六郎は復讐を固く誓うが、明治に入り発布された<仇討禁止令>により、武士の世では美風とされた仇討ちが禁じられてしまう。
生き方に迷い上京した六郎は、剣客・山岡鉄舟に弟子入りするが――。
時代にあらがい、信念を貫いた”最後の武士”の生き様が胸に迫る歴史長篇。

「青空を見よ。いかなる苦難があろうとも、いずれ、頭上には蒼天が広がる。そのことを忘れるな――」    以上 角川文庫HPから

最後の仇討ちは明治13年に行われました

最後の仇討ちは秋月藩家老・臼井亘理の長男・臼井六郎によって行われました。
1968年(慶応4年 秋に明治元年)
秋月藩執政臼井亘理は大久保利通からも嘱望されるほどの開明派であったが、守旧派の反感を買い、国家老吉田悟助の命を受けた干城隊の襲撃を受け、妻ともども残忍に殺害されました。藩の裁定は臼井殺害の犯人を罰せず、かえって臼井家を罰する不合理なもので、亘理の息子臼井六郎は周囲の反対にもかかわらず、敵討ちの決意を固めました。
1873年(明治6年)2月、司法卿・江藤新平が出した「復讐禁止令」により敵討ちは禁止されました。武士は士族となり、廃刀令によって帯刀も認められず、自らの存在意義を見失おうとしていました。
そんな中、
1880年(明治13年)、臼井六郎による最後の仇討ちが行われました。


私は最後の仇討ちをこの本で知りました

最後の仇討ちの話とは知らずにこの「蒼天見ゆ」を手に取りました。
読み進めていくうちに「仇討ち」の話に進行していきました。
幕末の激動期に、理不尽に父と母を殺されました。
明治の時代になり武士は新しい生き方を模索し、あえぐ中、一人仇討ちに拘り続けました。

読了後、ググって見ると、有名な話で本にもドラマにもなっていました。

激動の幕末

臼井六郎の父が殺されたのは尊王攘夷の嵐が吹き荒れる幕末です。
長きに亘った江戸幕府の時代が終わり、また、武士の時代もまた終わりました。
世界の列強に飲み込まれないために幕藩体制ではなく、日本一国として指揮命令系統を持ち、国力を蓄えなければならない、と大きな転換をしました。
身分と職を同時に失い新たな時代で職を求める士族たちの苦労はいかばかりだったでしょうか。

平成から令和の時代。
世界全体から見ると日本の国力は落ちています。
更に人口減少が体力を奪っていきます。
それなのに景気を維持するためにと国債を大量に発行しています。
もうそろそろ景気循環の発想から抜け出し、新しい産業をどう育成していくのか、いや、新しい芽を摘まないようにする発想に切り替えができないものかと、嘆息します。
身を切って大転換をした先人。
我々も蒼天を見上げようではありませんか。



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