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5月, 2025の投稿を表示しています

高校の同級生と一泊二日幡多の旅

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  新緑の五月、高校の同級生と高知県西部の幡多を巡る一泊二日の旅をしてきました。 旅は行先とどんなプランを立てるのかが重要です。 そして、その場所に行き楽しむメンバーも大切だと痛感した旅でした。 朝から宴会のJRしまんと 高知駅8:20発のしまんと1号で中村に向かいます。 席に着くなりガサゴソと探り出てきたのはもちろんビール。 旅の道中の安全と笑いを祈念して乾杯! 外国人夫婦の旅人は向こうの席から”カンパーイ”のジェスチャーで笑っていました。 chatgtpで写真をイラスト風に加工しました。 反対側の席でもこの通り。 朝から飲むビールは旨い! これも列車の旅だからこその楽しみです。 窪川駅から乗ってくる同級生が「窪川駅に新幹線が停まっちゅうよ」と写真を送ってくれました。 窪川駅に停車するなり車内のあちこちの席からカメラを持った小僧たちがよく見える車両に移動して写真を撮っていました。 ホームを見るとこちらでも嬉しそうに写真を撮っています。 もちろん、私も車内を移動しながら写真を撮りましたがなんせ隣の線路なので画角が窮屈でした。 席に戻ると何事もなかったかのように談笑する同級生を一喝! 「新幹線が停まっちゅうに驚かんかえ!」 同級生たちはぽかんとしていました 中村駅に到着。 ここで3人の同級生が合流し、全員集合。 2台の車で分乗します。 「どの車に乗るかあみだくじで決めようか」、「高校の時の席替えみたいや」と笑いながら出発です。 THE MANAでランチ 初日のランチは太平洋がよく見えるTHE MANAです。 レストラン | TheMana Village 「THE MANA」には二つの意味があります。 一つはローマ字読みで「ざまな」。「すごい」という意味がある土佐弁です。 もう一つは「MANA」はハワイで「大自然」という意味があります。 その二つを合わせて「THE MANA」と名付けています。 もちろんランチの内容も満足ですし、なんと言ってもここの売りは太平洋に突き出したテラスです。 ランチ後、こうしてテラスに出ると広いテラスとその向こうに広がる太平洋で爽快な気分になりました。 なお、風が強いのでテラスでの食事は提供していませんでした。 風の強い足摺岬 断崖絶壁に建つ足摺岬灯台。 この日は風が強く一緒に行った同級生は帽子を飛ばされ呆然。 足摺岬の展望台。 ここ...

世界文化遺産 斎場御嶽(せーふぁうたき)

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  世界文化遺産 斎場御嶽(せーふぁうたき)に行ってきました。 写真撮影は可でしたが、SNSなどへの掲載は不可とのことでした。 ネットにある資料を使いながら私が感じたこと、知り得たことを紹介したいと思います 琉球王国最高の聖地 世界文化遺産 斎場御嶽 斎場御嶽については上のリンクでご覧ください。 御嶽(うたき)は沖縄での聖地のことです。 聖地の中でもこの斎場御嶽はもっとも位の高い聖地です。 沖縄の自然崇拝 私は勉強不足で「神道ですか?」と聞いてしまいました。 「沖縄では自然を崇拝します。神道ではありません。」とやんわりと教えていただきました。 神道は神様を呼び出すために二礼二拍手をします。 御嶽では目の前の自然を拝むので呼び出す必要がありません。 頭を垂れ手を合わし拝みます。 斎場御嶽の後に平和記念資料館に行きました。 そこで明治時代の琉球解体、皇民化政策、神道の強制を知りました。 元々、沖縄には神道はありませんでした。 日本政府に神道を強制されました。 そのことを知らずに「神道ですか?」と聞いた勉強不足、うかつさを恥ずかしく思いました。 琉球解体と斎場御嶽 「琉球解体」とは明治政府が沖縄にあった琉球王国を日本国に併合する一連の動きをさします。 沖縄には1400年頃から琉球王国という国がありました。 江戸時代の琉球王国は、薩摩藩と中国の両方に従っているという複雑な状態にあり(日中両属状態)、日本の一部だったわけではありません。 1867(慶応3)年に江戸幕府の15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還をし、翌1868(明治元)年に明治政府が樹立します。 中央集権的な近代国家をめざす明治政府は、琉球王国を日本に組み入れていきます。 1872(明治5)年に琉球王国を琉球藩という名前に変えさせて、国王の尚泰を琉球藩王としました。 1879(明治12)年、明治政府は軍事力を背景に無理やり琉球藩の廃止・沖縄県の設置を実行しました。 国王の尚泰は首里城を日本に明け渡して、東京へ移住することを強制されたのです。 これにともない琉球と清国の冊封(さくほう)関係は廃止され、450年間続いた琉球王国は解体されました。 琉球王国で斎場御嶽は最高の聖地でした。 王国の兵士たちが警備し、一般の人間の立ち入りはできませんでした。 斎場御嶽の中に二つの壺があります。 真上には鍾乳石が垂れ...

初めてのコザ(沖縄市)

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終戦間もない沖縄を舞台にした小説でよく出てくるコザ(沖縄市)。 夜な夜なうちなんちゅの若者が基地に潜入し物資を”調達”してくる話が印象的でした。 機械油と汗とタバコの匂いホコリが舞うイメージがあります。 嘉手納基地のゲートに連なる通りは今もゲート通りと呼ばれています。  そう言えばコザに行ったことがありません。 小説に登場した混沌としたコザは今どうなっているのでしょう。 ゲート通りは少し異国の雰囲気がする閑散とした街でした ゲート通りは片側2車線。 その両脇に商店や飲食店が並ぶ街でした。 飲食店はいかにも外国人向けと思われる看板が目立つ飲食店が多くありました。 飲食店の正面には頑丈が鉄格子。 防犯のためでしょう。 ここ風景を見ると日本とは思えません。 こんな看板を見ると日本人なら入店を尻込みしてしまいます。 タトゥの店あちこちで見かけました。 こんな”カタログ”が大きな通りに面した小ウィンドウにあるというのはちょっと衝撃でした。 異国の雰囲気漂う町並みを歩く人は昼間も夜も多くありません。 基地の若者が街に出てくるのは週末の深夜 コザのゲート通りは昼間でも軍関係者が多く歩いていると思っていましたがそうではありませんでした。 夜も静かなものです。 ホテルのフロントで聞くと「軍の若者が街に出てくるのは週末の、それも21時以降」だそうです。 その時間帯に一人で出かけるのはさすがに躊躇しました。 左の写真は土曜日の朝刊です。 「県警や米軍 合同夜間巡視 女性暴行受け 74年以降初 沖縄市で」ということで昨晩、コザで夜間巡視を行っていたようです。 こんな記事を読むとやはり基地の街だと痛感します。 小説のような機械油、ホコリ、タバコ、汗の匂いが充満するゲート通りはありませんでした。 バンダンを売っていた闇市の痕跡が東京都心に感じられないのと同じです。 もう80年も経っているのてすからね。 でも、戦争を知らない私より若い人達が「じい、ばあから聞いた」と戦中戦後の話をよく知っています。 新聞は連日、沖縄戦の記事を掲載しています。 中谷防衛大臣はけちょんけちょんです。 80年で街は作り変えることができます。 でも、人の気持ちを変えることはできません。 初めてのコザ訪問の感想です。

辺野古埋め立て工事のゲート付近

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  世界一、いや宇宙1危険と言われる普天間基地の移転先として辺野古が候補になっています。 滑走路を確保するため埋め立てを行っています。反対派が工事現場のゲート前に集まっている画像を見ることがあります。 辺野古の埋め立てはどうなっているんだ。 実際に自分の目で見てきました 。 辺野古の埋め立て キャンプシュワブの近くの辺野古崎一帯を埋め立て滑走路を造る計画です。 埋め立てに大量の土砂を投入します。 そのため自然保護を訴え反対する人たちが大勢います。 軟弱地盤であり工事の難航が予想されています。 実際の工事はどうなっているんでしょうか。 9時前にゲートの前を通り、対岸から工事風景を見ました ゲートが9時に開くのに合わせ沢山のダンプカーが列になっていました。 対岸に行くと「基地はいらない 平和の街」の看板がありました。 対岸から見ると海面に沢山の杭打ち船が並んでいました。 ゲートの近くから工事現場を見ることができました 埋め立て工事の風景とは違いますね。 マヨネーズとも比喩されるほど軟弱な海底地盤。 土砂投入の前に杭を打ち地盤改良を行っています。 杭を打つ機械を乗せた船がたくさん浮かんでいます。 運び込まれた大量の土砂は絵画近くに投入されているのでしょう。 反対派の人たち 埋め立てゲートから500ⅿほどのところにあるキャンプシュワブの入り口ゲートです。 ゲートの反対側に簡易な小屋が並んでいます。 「連帯」を訴える垂れ幕です。 小屋には大勢の沖縄のおじい、おばあが居ました。 この時はうどんを配り、食べながら演説を聞いていました。 ゲート前での反対は9時、12時、15時の一日3回だそうです。 このゲート前での反対の時以外はこうして近くの小屋で待機し、情報交換し活動の計画を共有しています。 1年365日  晴れの日もある雨の日もあります  暑い日もあります寒い日もあります 基地は要らない 自然を壊すな 沖縄のおじい、おばあの熱意を感じます 反対派の人たちの小屋にジュゴンの人形が置かれていました 自然は大事 ジュゴンも大事 そして平和が大事 短い時間、現地を見ても何も答えは見つかりませんでした